戦没者遺族の相互扶助、生活相談などを実施しています

一般財団法人広島県遺族会

戦没者記録事業

念願の慰霊の旅 平和な島に激戦を偲ぶ

今回、日本遺族会の標記訪問団に参加し、父親の戦死したペリリュー島を訪れる事が出来きたことは、肩の荷が下りる/心が晴れるなどの筆舌で言い表せないほっとした心の安らぎを感じました。

ペリリュー島へ慰霊に行きたい思いは、父親の戦死したと同じ三十五歳になった時頃からの願いでありました。定年退職して若干の時間的余裕が出来た時期に良いタイミングで訪問団に参加できて、慰霊が出来た事はありがたいことだと思っています。

慰霊は、パラオ本島から始まり、アンガウル島、ペリリュー島と巡礼しました。

私は、ペリリュー島の海軍航空隊司令跡で慰霊をさせて戴きました。

また、西太平洋戦没者の碑では厳かに慰霊が執り行われ、式には省長も参列されて有意義なものとなりました。

ペリリュー島は、聞く所によりますと結果的には戦略的意義がなくなったために、硫黄島を凌ぐ激戦であったにも係わらず注目度が低いことは残念に思います。

島内では、旧日本軍の軽戦車や零戦の残骸や洞窟跡に二〇〇mm艦砲に不発弾が当たった状態なのを見て当時の激戦を偲びました。

ペリリュー島を含むパオラ島は日本語も現地語化していて穏やかな人柄に加えて、なおみさん、かんいちさんなどの日本名を持った人もいて親日的で親しみを感じました。日本統治時代が良かったものと思います。

慰霊の間に学校を訪問出来たことは、心の和む一時期で、子供たちの無邪気な、少しはにかむ様子は微笑ましく、どちらかと言えば重苦しい気持ちの中で一服の清涼剤になりました。また、友好の一助になったのではと思います。

今後も継続して欲しいと思います。贈り物としては、一般的な文房具に加えて、子供の喜ぶ玩具類など各人が考慮する必要もあるのではと考えます。そして、各人が子供一人一人に手渡しで渡すほうがより友好親善に血の通ったものになるのではと感じました。

最終日には、グアム島戦没者平和慰霊塔への献花で慰霊の旅を終えました。

その他の感想としては、JICAから若い女性が国立病院への検査技師として、ペリリュー島小学校の先生として派遣され、元気に頑張っている姿に健気な、やまとなでしこ此処にありと頼もしく実感しました。

感想文の最後になりますが、厚生労働省、日本遺族会、広島県遺族会、呉市遺族連合会に感謝申し上げて終わりといたします。有難う御座いました。

追伸
現地では、日本大使館も一目を置く歴史的知識も豊富な菊池正雄さんに案内頂き感謝です。

拙句

  • 『密林に踏み込み祈る英霊に』
  • 『慰霊の間心和む子供の眼』
  • 『父の霊背負いペリリュー後にする』

小酒鬼

呉市遺族連合会 西茂

この内容をpdfで見る

トラック、パラオ諸島慰霊の旅

この度十月十三日より十月十九日間七泊八日の日程でトラック、パラオ諸島慰霊友好親善訪問団に参加させて頂き、私の七十年の人生の中で一番心に残る旅でした。
これもお互いに戦後の苦しい時代母を助けて生活した同志の方々ばかりの旅行で、お互いに助け合い慰め合い、私達十名は、パラオ諸島を廻らさせて頂きました。
島々の所々又海上では、船の上にて、それぞれ、お父様の亡くなられた場所にて、祭壇を設け、慰霊祭をとり行わさせて頂きました。
その都度、亡き父に追悼文を読ませて頂き、お互いに読まれる追悼文は、父を思い、母を助け、兄弟、姉妹を労るお言葉は、口には言い表す事の出来ない文章で、口より語られるお声は、森羅万象一切が感動し、同情の涙をしてくれているようでした。
島々に残る船、戦車の残がいを見ると昔を思い出し、無い所では美しい島に、島々の人々の方々も人なつこく、ペリュー島小学校訪問では、日本語で「もしもしかめよ、かめさんよ」の童謡を歌って下さり、とても親しみを覚えさせて頂きました。この度、亡き父等の眠る戦没値に参らせて頂き、亡き父と充分お話しが出来たように思われました。
これも日本遺族会、厚生労働省、ご支援の賜物と心よりお礼申し上げます。

福山市 小泉

この内容をpdfで見る

父の戦没地を訪ね感動の涙の日々

このたび、パラオ諸島地域慰霊友好親善訪問団に参加させていただき、ありがとうございました。

父は昭和十九年七月二十五日南洋群島方面にて戦死したと聞いていました。南洋群島方面とはどういう島があるところだろう。何もわからないまま申し込みをしました。

一人で出かけたことのない私は不安いっぱいの出発でしたが、東京駅からタクシーに乗り、スムーズに九段会館に到着することができました。結団式の後、靖国神社に参拝し、いよいよ行くんだという思いを新たにしました。同じ境遇の者同士、靖国神社を後にする時には親しく話をしていました。

翌日はグァムを経由してコロール島へ、一日がかりの移動でした。

パラオ諸島、コロール島、ペリリュー島、アンガウル島には、防空壕、トーチカ、戦車等が当時そのままの姿で残っていて、胸が痛みました。

在パラオ共和国日本国大使館を表敬訪問し、身障者支援団体に車椅子を寄贈しました。このことは現地の新聞二社が記事にしてくれました。小学校に学用品等を贈呈。海軍基地ではパラオの木、「プルメリア」を全員で植樹し、各地で慰霊巡拝、西太平洋戦波者の碑の前で州知事出席のもと、戦没者追悼式を行い、感動、涙の毎日でした。

私の父の慰霊祭は、コロlル島のコロール湾に面した場所で行われました。父は敷設艇「測天」に乗り、コロール島からウルシー島へ向かって出発した直後、アメリカの空爆を受け、コロール湾内で戦没死したと知りました。コロール湾の海水は透明に澄み、はるかに続く碧い海、父はこんなきれいな海に沈んだんだと思うと、涙が止まらなくなりました。みんなで海に花を投げ入れ、お米とお酒をまきました。お米がキラキラと光りながら海の底へと消えてゆきました。

今まで私は、父はいなくてあたり前の生活を送ってきましたし、父が戦死したんだということもわかっているような、わかっていないような気持ちで今日まで来たような気がします。父のことはあまり考えたこともありませんでした。この訪問団に参加したことで改めて父のことを強く、深く思うようになりました。今にして思えば、遺骨がなかったので父の帰還を信じて死ぬまで待っていた母、母の心の中にはいつも父の姿があったと思います。これからは、父の無念さ、母の悲しみ、苦しみをかみしめながら、父母への感謝の気持ちを忘れないように生きてゆきたいと思っています。

そして戦争のない平和な世界になるようにと願っています。

私にとって二度とない有意義な日々を送ることができました。心に残る立派な慰霊祭を行っていただき、ありがとうございました。

竹原市遺族連合会 谷村

この内容をpdfで見る