戦没者遺族の相互扶助、生活相談などを実施しています

一般財団法人広島県遺族会

戦没者記録事業

「ボルネオ慰霊友好親善訪問団」参加報告書

戦後六十年という節目の年に当る今秋。先の大戦及び戦後において、祖国ために尊い命を捧げられた靖国の英霊を慰霊するため、日本政府事業、日本遺族会、広島県遺族会、広島市遺族会、株式会社小田急トラベル、その他多くの方々の温かい励ましと、ご支援により、始めての海外への不安を胸に慰霊巡拝の旅に出発した。
全国から参加した遺児の二十二名はボルネオ島のマレイシア側を北廻りに拝するA班と、インドネシア側を南廻りに巡拝するB班に分かれ巡拝の旅が始まった。
「欲しがりません、勝つまでは」と耐久精神を国民学校でたたき込まれた軍国少年少女たちは、「銃後を守れ」と遺言した亡父の遺志を胸に、父亡き後の戦後を祖父母、母、幼い弟妹を助け、厳しい時代に、甘える事も許されず、六十年という歳月を生き抜き、今では、還暦古希を迎え、白髪も増え、子や孫に固まれ、やっと肩の荷をおろした者同志、打ち解けるのに時間は不用。互いに助け合い、励まし合って、午前四時起床の日もある、厳しいスケジュールの慰霊の旅が続いた。
航空機の乗継ぎ七回。出入国八回。セレベス海の荒海の真中で、エンストを起し、木の葉のように揺れる小さな船での旅。四一〇四メートルのキナパル山中腹のジャングルの間も走る、七時間近いパスでの移動。
旅行者の姿は、一人も見当たらない、現地人だけ住むパリクパパンの山村に、訪づれる者もなく、淋しくたたずむ、亡き父の慰霊碑の前では、日本は戦後めざましい発展を遂げ、今では世界のすみずみまで行く事が出来る時代になったにもかかわらず、墓参が今日に至った事を深く詫び、悲しい時、苦しい時、淋しい時には、靖国の英霊を父にもつ誇を胸に、「親の無い子」と、世間から後指を差されないように、世の中のお役に立てるようにと、苦難の道を一山一山越えてきた事を報告し、遣された人生を、誰かのためにお役に立てるよう、微力を尽くす事を誓った。
屍で埋め尽くされたパギナタンの川原では、サンダカンを出発する時には、一〇〇〇名いた大隊が、五〇〇キロにわたるジャングルの道無き道を行軍中、糧秣は不足し、飢餓を疾病のため目的地に着いた時には、わずか十数名になっていたという事を知り、流木や小石を集めて国旗を立て、供物・供花のもと、般若心経を読経し、菊の花を川面に浮かべ、赤道直下の炎暑の下、滴り落ちる汗と涙。流れ行く菊の花をいつまでもいつまでも見送り、幾多の英霊の冥福を祈ると共に、戦争の悲惨を語り継ぐ使命を自覚した。
最後に、A班七ケ所、B班四ケ所の慰霊巡拝の旅を終えた参加者全員が、ラブアン平和公園にある「ボルネオ戦没者の碑」の前で、ボルネオ地域及び海域の「全戦没者追悼式」wp終え、世界各地で実施されている当事業を未参加の遺児の皆さんに周知徹底する事を胸に誓い帰国の途についた。

以上

末筆になりましたが、慰霊巡拝のお世話になりました。日本政府を始め、日本遺族会、広島県遺族会、広島市遺族会、株式会社小田急トラベル、各国の旅行業者、参加者の遺児の皆さま方に、衷心より厚く厚くお礼申し上げます。

広島市 垣内田

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