フィリピン慰霊友好親善訪問団(E班) 平成24年 3月2日~9日

この度、九年ぶりに二度目のフィリピンに来ることができましたので大変感謝しています。初めての時は、成田空港からマニラ国際空港を経由してパナイ島イロイロ空港へ着き。ホテル サラビアマノールに宿泊し、翌日イロイロからやっと三十人位が乗れる小船で、ギマラス島沖にてお父さんの無くなった場所に向かって花を供えることができた様子がつい数日前の様によみがえって来ました。年をとるのも早いもので、私もお父さんの人生の二倍も長く生きることが出来ました。お母さんも七年前にそちらへ行きました。「お父さん」もお母さんに会えましたか。そして仲良くしていますか。初めてフィリピンへきた時は良く知りませんでしたが。その当時の同室の方から帰国後何度もお会いして、お父さんの乗った鎌倉丸の情報を頂き、なお、数々の資料をお送りくださいました。鎌倉丸が諸般の事情で秩父丸から船名を変更した事等まったく知りませんでした。神戸からマニラを経由してパリクパパンへ向け単独航行中にアメリカ潜水艦ガジョンの二発の魚雷攻撃を受け、わずか五分間で船首を上に向け棒立ちになり水没した事は私には到底考えられませんでした。今回は遺児百三十一名の参加者でした。A班十五名、B班二十一名、C班二十二名、D班十九名、E班十一名、F班二十名、G班二十三名です。私達E班はセブ島慰霊巡拝、パナイ島慰霊巡拝、学校訪問、病院訪問、パラワン島慰霊巡拝、ナガ慰霊巡拝、カリラヤにて全戦没者追悼式等の順番で執り行われました、この度は皆様のご協力を得てフィリピン慰霊友好親善訪問団に参加できました。私にとっては前回果たせなかった鎌倉丸の沈没現場のナソ岬を望むすばらしい海岸にて慰霊できました。大変ありがとうございました。

三原市 小林

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フィリピン慰霊の旅を終えて

自分は昭和十七年七月生まれ。私が生まれた時は四人姉弟の四番目で始めての男子だったので喜んだ様です。自分は父の顔を覚えていません。昭和十九年六月、二回目の出征をして行きました。出征する時に今回はもう福山の地をふむことが出来ないかもしれないと家族に話した様です。
今回の慰霊の旅は私が最初に行かしていただいたのですが、次回は姉たちもぜひ父の没地に行きたいと言っております。
日本を発ってフィリピンの首都マニラに着き、ツゲガラオに着いた時、警察官の護衛のもとサンタマリアアパリと慰霊が進み翌日が私の父が没っしたリサールに着いた時は感慨無量でした。福山からのお供え物の酒、饅頭、おもち、水と供え慰霊祭が始まり、その時には涙が出てたまりませんでした。
当地方は治安が良くないとの事で警察官の方々に大変お世話になり有りがたく思いました。
また現地の日本人ガイドの方ツーリストそして、日本遺族会の方々に厚くお礼申し上げます。

   

福山市 片岡

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ある遺児の軌跡(大崎上島町)

   

「県新聞第148号 H18.1.31 著者 村上範明」 豊田郡 村上

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フィリピン慰霊友好親善訪問団(F班)

   

「県新聞158号 H26.1.1 著者 森川慶子 伊藤和子」 東広島市 森川・竹原市 伊藤

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フィリピン慰霊友好親善訪問団(D班)

   

「県新聞158号 H26.1.1 著者 大本幹彦」 尾道市 大本

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