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戦没者を語る会
- 第1回「戦没者を語る会」(1次)(平成27年4月30日)
- 第1回「戦没者を語る会」(2次)(平成27年10月23日)世羅町遺族会
- 第2回「戦没者を語る会」(平成27年11月26日)
- 第3回「戦没者を語る会」(平成28年11月24日)
- 第4回「戦没者を語る会」(平成29年7月7日)福山市遺族会
- 第5回「戦没者を語る会」(平成29年11月28日)
- 第6回「戦没者を語る会」(平成30年9月12日)
- 第7回「戦没者を語る会」(平成30年11月19日)
- 第8回「戦没者を語る会」(平成31年4月19日)三次市遺族会連合会
- 第9回「戦没者を語る会」(令和元年8月30日)
- 第10回「戦没者を語る会」(令和元年12月9日)
- 第11回「戦没者を語る会」(令和3年3月24日)
- 第12回「戦没者を語る会」(令和4年6月27日)
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慰霊の旅~平成十七年慰霊の旅を終えて~
寒さもゆるみはじめた、三月の中旬、中国慰霊友好親善訪問団の一員として参加し、積年の思ひをかなえることが出来ました。全国から四十五名参加され、それぞれ戦没地域が異なる為、ABCの三班に班別され、私はA班十八名の一員に、総括団長、森田次夫、「日本遺族会副会長」ほか「団長補佐」、添乗員とで二十一名がグループとして最後迄ご一緒させていただきました。靖国神社に参拝し慰霊の旅の思いを誓い、成田発十時四十五分空路、中国に向って飛び立ちました。現地時間十二時四十五分、上海浦東国際空港に着陸、夢に見た父の眠る中国の地に一歩を印した。ここで各班は別行動となり、A班は森田団長に引率され、ここで現地ガイド二名で、パスにて早速足跡を巡る慰霊の旅が始まる。最初の目的地、上海市街地、宝山区ウースイン・クリークに、日中戦争開戦時、日本軍が上陸した地点だそうだ。父もここに上陸したのであろうか?気持が高ぶる。当時の面影は無いと言う。野原だった陸地も、今は立派な公園、市街地だ。河口を望み皆それぞれの思いを胸に手を合せ写真を撮る。初日の為か皆少し緊張している様だ。ここでの巡拝を終えホテルの一室にて慰霊祭が行われ、一日目がおわる。
明けて今日上海近郊の巡拝、パスにゆられ約一時間で宝山区雑店鋲地域に入る。萩経クリーク、昭和十二年九月日本軍が敵を追撃、南京へ向け進行した地点だそうだ。南方梅宅、北梅宅、バラック建てみたいな民家や商店街だ。ここで全員胸に付けている名札をはずす。当地は危険なのだ。現地のガイドさんの指示にしたがう。なんとも言えない雰囲気だ。この付近で五家族の方の戦没地、川辺に下り、手を合わせ小石をそっとポケットに、人目をさけ植込に脆き合掌する人、持参したお水等をお供えし頭を下げ涙する人、民家の方から不思議そうに眺めていた、羅店鎮地域の慰霊を終へ、上海市街地、当時の第一海軍病院に。ここで一家族が戦病死されている、庭に入り芝に脆き、いつまでも建物を見つめていた。
ここからホテルに帰り、私の父の限る戦没地、ここから速く離れた漸江省寧汲、現地は遠くて行けない、団長さんの提案で別室を借り受け、遥かなる南方の空、寧汲に向かって私と弟の二人は父への思いを語りかけ手を合わせた。残念である。現地付近迄行けないくやしさ、これも運命を諦めなければならなかった。関係者の慰霊祭も終わり今日も暮れる。
三日目のバスは上海都市交通高速道路を南京まで「三〇〇」キロ、市街地を抜け景色は広大な田畑、上海、蘇州と通り約四時間走った頃、南京に入る。ここで南京の旅行会社のパスに乗りかえ。ガイドも女性に、南京地域の巡拝が始まる。郊外で一家族の慰霊を終え、南京攻略戦の行われた。雨花台。南京城の中華門、四重の門をくぐり、楼上に登り街中を望み、五家族の皆様が巡拝された。顔に涙を浮かべ、手を合わせ、肩が震えていた。南京は対日感情の厳しい土地柄、ここでも名札をはずしての行動、仲間の一人が靖国問題を女性ガイドに語りかけた。口調が変わった。場所が悪い。行動に気を付けながら巡拝し、室での慰霊祭も無事終えた。
四日目の朝、南京大虐殺記念館を見学し、いろんなことを想定しながら戦争のみじめさを思い知らされる。今日は南京から空路南昌へ。着陸後パスで昌九高速道路を走り九江へ向かう。広大な田畑、少数の民家が見える。途中立ち寄ったサービスエリヤから世界遺産の名勝鹿山の峰々が望まれた。父の便りにもあったとカメラに収めていた。インターチェンジを降りて今日の宿、其士九江大酒店に到着。すぐ前に長江が流れ川面を船が行き交うのが見える行程の都合で巡拝が明日になる方々の慰霊祭が一室で行われ、これでA班の個人慰霊祭は全て終わった。
五日目、雨の中パスは今日の巡拝地、黄梅に向け長江大橋を渡る。雨に煙って何にも見えない。渡り終え湖北省に入る。一時間ほどで黄梅近郊民家の家が並んで建っている。民家の前で数十人の人々がパスの方を見ている。町はずれの人気のない道路沿いにパスは停り慰霊場所に、 戦没地はここより更に「二〇キロ」「一二〇キロ」と遠い、ここでは線香を灯しお供え物と写真を胸に山の彼方へ遥拝される終わって来た路を逆ルートで南昌に向かう。南昌市内に入り、週恩来ら各面軍が武装蜂起した町、起義記念館を見学しホテルに。
これで五日間の慰霊巡拝は皆無事に終わった。この目で見たい、父の戦没地、積年の思いを戦後六十年たった今、やっと叶い胸のつかえが晴れました。一緒に帰りましょう。追悼文を読む顔にも、涙に溢れ声にならなかった。私を含め、参加した全員、各地域でそれぞれの思いを綴った追悼文を読み父への誠を捧げた慰霊であった。
日時は変わって南昌から空路北京に。降り立った北京は寒い。今日の予定は、日本大使館訪問。現在の北京は自動車が多い。道路は渋滞。少し遅れて到着。門外で書記官が出迎えてくだされた。館内に案内され、領事部長、書記官と懇談。森田団長から慰霊巡拝の意義と歴史について説明。対日意識について等々意見交換され三十分程の表敬訪問を終えた。また万里の長城を見学し周辺の小高い丘に植林活動も行う。夕方から各班交流し、「在中国日本国大使館」「中華全国青年連合会」の方々を招いて懇親会が行われ、今後も話々の日中友好関係が深まること望みますと挨拶され、友好親善訪問団の全行程が終わった。
帰国の日、天町一公園、天安門と中国悠久の歴史を感じながら散策し、慰霊巡拝して見た現地を思い出し、今の日本の平和と、命の大切さを改めて感じると共に、祖国の礎となった尊い犠牲があった事実を忘れてはならないと、心に哲いながら旅を終え帰国しました。
尾道遺族会 福島