ある遺児の軌跡

私が三十六歳に成った時、たった一枚の赤紙で家族を残して行かなければならなかった父の切ない気持ちを察して胸の苦しくなったことを覚えています。どんなにか気がかりになりながら行ったことだろう
昭和十九年五月三日赤紙によって招集され、そして一年三ヶ月後の昭和二十年八月九日フィリッピンで死亡しました。その赤紙には次の事が書かれていました。(要点のみ)

(国民服を着て出征し、私服は送り返され、そのポケットの中に赤紙がありました。その赤紙を私達は怨念の遺品として仏壇におさめています)
父は菓子職人で小さな店を持って、母を相手に早朝より夜遅くまで働いていました。特に生菓子を作るのは得意で、指先から出てくる花や動物を飽きずに眺めていました。この日を境に父は店の整理、身辺の雑事の引継ぎ等々であわただしく過ごしました。
その間赤紙が来たことを知った地域の人は次々と来て「この度はお国のために働くことが出来て本当におめでとうございます」と紋切型の挨拶をしてくれました。母は陰では「何がおめでたかろうに」と表の顔と裏の顔を私達には見せていました。
出征前の四人家族の夕食のおり父は私に「お前は長男だからお母さんを助けてこの家をしっかり守って欲しい。家族みんながしっかりしておれば大丈夫だから」と教え諭すように言った言葉が今も脳裏に焼きついています。
出征の朝、多くの村の人に日の丸の旗と軍歌でおくられ「国のために働ける喜ぴを感じています。滅私報国尽くします」と短い挨拶を残して出て行きました。これが最後の姿でした。
その後、毎日陰ぜんを供えどこでどんなことをしているかしら、元気でかえってくれたらいいのにと言うのが私達の毎日の会話でした。
幼少で父の顔を知らず一度も「おとうさん」といったことが無い人が父の終焉の地で「おやじ」と精一杯大声で叫んで号泣する姿、なき人への積年の思いを訴えることばの一つ-つに心打つ響きがありました。
遺児ならば共有できる感情かもしれません。
父の死はいったいなんだったのだろうか。心ならずも戦場にかりだされ、命を投げ捨てざるをえなかった多くの人々の犠牲は何だったのだろうか。この私達の悲しみを子や孫には絶対に味合わせてはならないという思いを込めてこの一文を記しました。

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