西部ニューギニア慰霊友好親善事業に参加して

今度投稿の依頼を受けましたが、紙面の制約もあり強く心に感じた事を書いて、遺族会の皆様への報告とさせて戴きます。

八月二十一日午前十一時増矢総括団長以下、三十八名は成田空港を出発途中ジャカルタに一泊し、西部ニューギニアへと飛び立ちました。広島県から熊野町の吉谷勝美さん府中町の生田辰子さんと私の三名が参加しました。幼い頃より「ニューギニア」「ホーランジヤ」「ダンケン」この地名は今は亡き母が父の戦死した場所として良く聞かされ一度は現地へ行ってほしいとの願いでした。戦後六十年が過ぎ、七十才にして父の眠る地へ向かう心の内はどう表現していいか複雑で機内でも昨夜も心が高まり眠れず、落ち着きませんでした。

八月二十二日午後三時ニューギニアのホーランジヤ(現ジヤプラ)に到着、日本を出発しておよそ十四時間、まず感じたのは、どうしてこんな遠くまでと、思いました。おそらく当時は、船で何十日もかかって、何の為に来たのだろうか、国を守る為とは言え生きて帰れないと覚悟していたのではないかと言う思いがしました。第二次大戦当時西部ニューギニアだけで約六万人の日本兵士が連合軍と戦いそのほとんどが戦死した、と聞いています。「食うに糧なく、撃つに弾なし」と言う悲惨な状況であったと聞くにつけ何の為にきたのかとの思いが再びこみ上げて来ました。六十年たったニューギニア島は密林におおわれ、わずかな海岸ぞいの土地に民家が点在し、密林の奥では今でも焼畑で作物を作る穏やかな島の人々の様子が何か心を静かにしてくれました。

八月二十三日から四日間二班に別れ、各人が父の慰霊碑に向かい、六十数年の思いを込め追悼文を読みました。永い人生数々苦難を乗り越え生きて来た初老の人達がまるで少年少女が亡き父へ向かって話しかける様にこみ上げる思いと、涙で言葉もとぎれ全員涙、なみだでした。読み終えて何か胸のつかえが取れた様な、穏やかな解放感を覚えたのは私だけではなかったと思います。

今回の慰霊巡拝の中で最も心を慰めてくれたのは、小学校を訪問した時の子供達の明るい笑顔とかざり気のない純真さや、巡拝の途中バスに向かって子を振ってくれた住民の人達でした。六十年前戦火で大変な災いを受けた事など少しも感じられない姿が私の心を慰めてくれ心から「テリマカシィ」(ありがとう)と言えた事でした。今度の慰霊巡拝を終え強く感じたことは二度と戦争はしてはいけない。一人の尊い命と、生きる喜びを無視し、国を上げて戦う様な、政治や教育を行う国家にしてはならない。そして現在の平和な暮らしのかげには、数百万人兵士の尊い命をなくした事実を、自分の子供、孫、そして身近な人々へ伝えていかなければならないと強く思いました。

八月二十九日午前八時全員無事成田空港へ着き、解団式の後再会を約し各人帰路へ向かいました。終わりになりましたが、増矢総括団長を初め関係者の皆様に大変お世話になりました。心からお礼を申し上げます。

つたない句ですが読んでみました

  • 古希にして父親の死をたしかめん
  • ヤシの木に父を見たかと問かける
  • 父ねむる南の島よさようなら

平成十九年十二月

福山市 成田

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西部ニューギニア慰霊友好親善訪問団(B班)

「県新聞158号 H26.1.1 著者 松葉博光」 福山市 松葉

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西部ニューギニア慰霊友好親善訪問団(A班)

「県新聞158号 H26.1.1 著者 大本幹彦」 広島市 北野

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