東部ニューギニア慰霊友好親善事業に参加して

私の父平田健男は、私が生まれた満一歳のとき赤紙一枚で召集され広島港を出発し、南洋を転戦しながらポートモレスビー作戦に投入されました。

私が一歳十ヶ月になる昭和十七年十一月十三日にマラリアに冒され、ニューブリテン島ココボに設置されていた第七十六兵站病院で戦病死しました。

今から十九年前、(財)広島県遺族会主催の南太平洋地区戦投者戦跡巡拝事業に参加し、父に会いに行きました。

今回、(財)日本遺族会が実施主体である戦没者遺児による慰霊友好親善事業のうち、「東部ニューギニア慰霊友好親善訪問団」の計画を知り、十九年ぶりにもう一度会いに行きたいとの思いから意思表明をしましたところ、訪問団の総括団長を依頼され、考慮の末大役をお受けいたしました。

さて、訪問団は九段会館に集合し、A班からD班までの四班に編成され、十一月十日十三時五十分から靖国神社に昇殿参拝を行い、それぞれが出発準備を整え十六時五十五分から結団式、壮行会を実施し、十七時四十五分バスに分乗し、成田国際空港に向かいました。

ポートモレスピーに十一日四時三十分に到着した後に、それぞれの班に分かれて父の眠る地に向けて出発しました。それぞれの地に設置されている「ニューギニアの碑」、「南太平洋戦没者の碑」の前で、また、それぞれの班において参加者の父の戦没地、戦没方向に祭壇を設けて慰霊祭を執り行いました。
また、A班は二十四名で、マダン、ウエワクでウエワク小学校、ポートモレスビーの病院、老人ホームの訪問、B班は十七名でラエ、ポートモレスビー、ウエワク、でポポンデッタの小学校、ポートモレスビーの病院、老人ホーム等の訪問、C班は二十名でマヌス、カビエン、ラバウル方面でラバウルの小学校、病院、老人ホームを訪問、D班は十三名でブカ、ラバウル方面で、ブカの小学校、ラバウルの病院、老人ホーム等を訪問しました。

さて、ニューギニアの国民は総体的に親日的であり、私たちがバスによる移動中、大人も子供たちも車窓に向って大きく手を振り、声を上げ、大歓迎振りを示してくれました。

一九七五年初代首相のマイケル・ソマレ氏は、独立した時「私が今、ここに在るのは日本人のおかげです。日本の軍人たちに読み書き、ソロバンや規律を教わったからです。」と演説をされたと聞きました。

私にとってパプアニューギニアは、遠い国でした。しかし今回この地は父と私を結ぶ遠くて近い国となりました。

結びに、東部ニューギニアにおいて、慰霊友好親善に努め、全員無事に帰国いたしました。

広島県遺族会 会長 平田

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