硫黄島での遺骨収集作業

政府主催の平成十六年度、第四次硫黄島遺骨収集調査派遣団(平成十六年二月十六日から三月一日)に日本遺族会の一員として参加し、硫黄島に行ってきました。
硫黄島は東京から南へ一二五〇キロメートルの太平洋に浮かぶ孤島で、面積も二十二平方キロメートルの火山島で、この小さな島に数一〇〇個の地下壕が掘られ、その長さは十八キロメートルにも及ぶものです。
昭和二十年二月十六日から始まった米軍による攻撃は熾烈を極め、地上の建造物は跡形もなく破壊されました。
すでに補給路を断たれていた日本軍はそれでも日間に反撃し、一ヶ月間持ちこたえましたが、米軍の圧倒的な火力の前に遂に玉砕し二万名を超す戦死者が出たそうです。
今回、私たち遺骨収集調査派遣団は、摺鉢山の麓にある独立歩兵第三一二大隊壕内と、千鳥ケ原地区対空機関砲陣地郡跡の二箇所で遺骨収集作業を行いました。
独立歩兵第三一二大隊壕内での作業は、はじめに埋もれた壕入り口の土砂やジャングル化した周辺の雑木をパワーショベルで取り除き、小さな発電機と懐中電灯をたよりに壕内に入り、メイン通路の横に広がったポケットと呼ばれる所をスコップと熊手で掘り下げ、遺骨の捜索をしました。
また、掘り出した土を手箕に入れ数人がリレーで壕外に運び出し、その土を精査し、小さな骨片や歯一本まで見つけるため収集作業にあたりました。
壕の入り口附近から赤く錆びた小銃と鉄兜が出てきました。鉄兜の中には頭蓋骨が入っていましたが、火炎放射器で焼かれたのか手に取ると崩れ落ちてしまいました。「苦しかったでしょうね」と遺骨に合掌しました。
独立歩兵第三一二大隊壕内からは、九柱の遺骨と多数の小銃、縦弾、銃剣、手りゅう弾、火薬、めがね、万年筆、靴、食器などが発掘されました。
遺骨収集作業はヘルメットに防塵マスクの装備で臨みましたが、壕内は人ひとりがやっと通れる狭い通路と、火山の熱気で何もしなくても汗が滴り落ちる中で、服は汗と土でどろどろになりながら進むと、天井には土の層に亀裂があり、いつ崩落するか分からない状況でしたが「一柱でも多く連れて帰ってあげたい」という思いが強く、崩落の恐怖心は感じませんでした。
千鳥ケ原地区対空機関砲陣地郡跡地は、平地であるが六十年の歳月の経過からトーチカも深く砂に埋まっておりましたが、ブルトーザーで砂を寄せ集め、スコップと熊手で砂山を崩しながらの作業になり、ブルトーザーで掻いた後もトーチカ周辺の人が居たと思われる所は、さらにスコップで掘り下げ、遺骨の捜索にあたりました。
ここでは、頭から足の先端まで完全な姿の遺骨が一柱収骨されましたが、頭蓋骨は鉄兜と共に撃ち抜かれており、上前歯の金歯だけが光っておりました。
また、ボタンも元の位置に残っており、胸の辺りから印鑑と認識票が、足元には軍靴も出てきました。この方は六十年間どんなにかこの日を待ち続けたことか、「出来るだけ早く家族のもとに帰してあげたい」と思いながら作業にあたりました。
この場所でも十一柱の遺骨と多数の武器と弾薬、生活用品が発掘されました。
六十年前の二月に熾烈な戦いが繰り広げられたこの千鳥ヶ原、日陰もなく、三十度を超える炎天下での遺骨収集作業でしたが、補給路を断たれ食料も水もなく栄養失調状態で戦った当時の兵士の苦労を想像すると、この暑さで音をあげるわけにはいかないと自分に言い聞かせながら、一柱でも多く遺骨を見つけてあげたいという思いを強く感じました。
硫黄島の海は碧く鯨が海岸近くで潮を吹きながら群れをなし、振り向けば赤や黄色の原色の美しい花が咲いている。
今日の平和と繁栄の礎となられた兵士の方々は、六十年前どんな想いでこの美しい光景を眺められたことでしょう。
今回収集した二十柱の遺骨と、一次、二次、三次の収集団が収集した三十柱の遺骨は丁寧に洗骨され、私たち収集団員の胸にしっかりと抱かれ「海ゆかば」の曲が流れる中、海上自衛隊硫黄島航空基地隊の儀杖兵による捧げ銃に見送られ、遺骨は六十年ぶりに硫黄島より故国日本に帰ってまいりました。
翌日、東京千鳥ケ淵戦没者墓苑で遺骨の引渡し式が行われ、遺骨を捧持して入場した私たちの列に数人の老婦人が歩み寄られ、ご主人を亡くされたご遺族の方たちだったのか皆さん涙ながらに「ありがとう御座いました」と深々と頭を下げられました。
遺骨収集は最後の一人になるまで終わらない、今後も要請があれば、何時でもどこにでも飛んで行き、今日の平和の礎となられた先人の御霊に報いるため、元気な今のうちに遺骨の収集作業で奉仕したい。

呉市遺族連合会 石田

この内容をpdfで見る

平成18年第3次~19年第1次硫黄島遺骨収集

「県新聞149号 H20.1.31 著者 井上 忠二」

この内容をpdfで見る